メルニーク (5月9日)


プラハから北へ車で約20分、メルニークに着きました。
静かな町です。
ここにあるメルニーク城を見学します。

(奥がメルニーク城)



城内に入る前に、外庭へ。
周辺の景色が一望できます。

(真下はヴルタヴァ川)




畑やら森やらが広がるなかに、ポツンと山がありました。
さほど高くないですが、平地しかないので結構目立ちます。
ジープ山と言います。

(写真右奥)




昔、東の方からある部族がこの地にやってきました。


彼らはジープ山に登り、周りの豊かな土地を見て、ここに定住することにしました。
そこで、部族の長がこの土地の名前をどうするか人々に尋ねたところ、皆口々にその長の名前を叫びました。


長の名前はチェフと言い、以来、この地はチェコと呼ばれるようになりました。


…という伝説がある山です。




城内へ。

(入口)


現在、このお城はロブコヴィッツ家という貴族が所有しています。
代々軍人や官僚、カーレーサーも輩出した名家です。
城内にはロブコヴィッツ家関連の品々が展示されていました。

(中庭。スグラフィートの壁。)

(建物内は撮影できず)



しばらくお城の内外を散策した後、再びプラハへ。




プラハ市内へ戻った後は、いよいよ完全自由行動。
と、その前にショッピングモールのトイレへ。

(やりづらい…)


今日はここまで。

プラハ −旧市街−(5月9日)


カレル橋を渡ると、旧市街です。

(旧市街側から見たカレル橋の橋塔)


名前のとおり昔からの繁華街。
細い路地にたくさんのお店が並んでて、人がごった返してます。



通りを抜けきって旧市街広場に出てきました。
市庁舎もある旧市街の中心部です。

(真ん中の赤い建物が市庁舎)



市庁舎の横には立派な時計塔があります。

(高さは約70m)


作られたのは15世紀初め。
上の時計盤が天動説に基づく天文時計で、下のがカレンダー時計。
からくり時計になってて、今でも朝9時から夜9時まで毎正時に動きます。




広場を横切ってさらに進むと、通りをまたぐように巨大な建物がありました。
火薬塔です。
昔この辺にあった王宮の門だったのが、その後ロシアとの戦争の時に
火薬の貯蔵庫として使ったのでこう呼ばれるようになりました。

(ドッシリ感がたまりません)


火薬塔のすぐ脇には市民会館がありました。
同じ市民会館でも、日本で見かけるのとは大分趣が違います。




ここから先は新市街。
通りを逆戻りして、途中にある免税店でしばらくお土産選んだ後、昼食です。


ブダペストからウィーン、そしてプラハに来るまで、主食はほぼジャガイモとパン。
たまには違うの食べたかったんで、お昼はパスタにしました。

ペンネ



ビールも今まで事あるごとに飲んできましたが、こっちは違うのにしなくても
全く問題ありません。

(おいしくいただきました)



今日はここまで。次は一旦プラハを離れます。

プラハ −カレル橋−(5月9日)


フラチャニの丘から麓に下りてきました。



最初に向かったのはカレル橋。

(この通りを抜けると目的地)


テレビや雑誌でプラハが紹介される時、必ず出てくる観光名所です。

(橋の上から。中央奥に聖ヴィート大聖堂の尖塔が見えます)



ヴルタヴァ川にマラー・ストラナ地区と旧市街とを繋ぐように架かっています。
チェスキー・クルムロフでは小さかった川も、プラハを流れる頃にはかなりの川幅です。


作られたのは、14世紀後半。
長さ約500メートル、幅約10メートルの大きな橋です。


橋は歩行者天国になってて、みやげ物屋や似顔絵屋が店を開いてたり、バンドの演奏もやってます。

(ジャズを演奏中)


カレル橋の左右には、全部で30体の石像が並んでいます。
17世紀から20世紀前半にかけて作られ、モデルはほとんどがキリスト教にまつわる人達です。


屋外で雨ざらしなんで修理中のもありましたが、どれも素晴らしい。



(左から聖ヴァーツラフ、聖ノルベルト、聖ジギスムント)



(聖アントニウス



(聖アウグスティヌス



(聖クリストフス)




聖ヴィート大聖堂にお墓があったヤン・ネポムツキーの像もありました。
彼はこの橋から川へ投げ込まれて殉教しました。




下の写真で十字架を持ってるのが、あのフランシスコ・ザビエルです。


イエズス会の宣教師として、日本を含めたアジアで布教活動を行いました。
そのためか、彼を支えている4人の像はどれもアジア系の風貌をしています。


ここにも像があるってことは、やっぱりすごい人だったんですね。




30分くらい橋の上から石像や風景を眺めた後、次の旧市街に向かいました。


今日はここまで。

プラハ −黄金の小路−(5月9日)


聖イジー教会からちょっと歩いて、細い通りに入りました。
「黄金の小路」です。
小さな家が並んでます。


昔、ある皇帝が錬金術師達をここに住まわせて、怪しげな実験をしてたって
いうのが、名前の由来のようです(諸説あり)。


十数軒あるなかに、19〜20世紀の作家フランツ・カフカが仕事場にしていた家もあります。

(今はショップになってます)


壁にはプレートもありました。

(『変身』とか有名ですよね。読んだことないけど)




建物の2階部分は家々を貫く感じになってて、鎧やら武器やらが
展示してありました。

(甲冑が出迎えてくれてます)



(この辺は割とオーソドックス)



(色んな武器があります)



(しゃくれてます)



(鳥!)




黄金の小路でプラハ城見学は終了。
東門から城外に出ました。




次は丘を下って、市街地に向かいます。



(斜面にはブドウ畑)


今日はここまで。

プラハ −旧王宮・聖イジー教会−(5月9日)


次は旧王宮。
大聖堂の隣にあります。

(写真右。淡い紫の建物)


最初に大広間“ウラジスラフ・ホール”を見学。
天井の格子の曲線がきれいです。


儀礼などの会場だけでなく、馬上槍試合も行われてたとのこと。
それくらい広いです。

(馬が登りやすいように階段の段差も低い)




ホールを抜ける途中、脇にある廊下を渡ってボヘミア官房っていう部屋に入りました。




17世紀頃チェコを治めていたのは神聖ローマ帝国
キリスト教カトリックの国です。


領内のカトリック化を進める帝国政府の下、対立するプロテスタント派の人々は
厳しい弾圧を受けていました。


そんな中の1618年、プロテスタント派の貴族達がこの部屋に押し入り、
役人達を窓から放り出す事件が起きます。

第二次プラハ窓外投擲事件。既に誰かが一回やらかしてました)



これを機にチェコプロテスタント派が反乱を起こすと、徐々にヨーロッパ各地に広がり、
各国を巻き込む戦争に発展。
結局、1648年まで続きました。「三十年戦争」として教科書にも出てきます。


そんな大事件のきっかけになったとは思えないくらい普通の部屋です。
そこに自分が立ってるのも含めて不思議な感じでした。





旧王宮を出て、今度は聖イジー教会に向かいます。


外観は派手ですが、中の作りはわりと質素。改修工事中でした。




教会の隅に石像がありました。


チェコの領主ポジヴォイの妻・ルドミラがモデルです。
聖ヴィート大聖堂のガラス絵にも孫のヴァーツラフ1世と一緒に描かれてます。

(中央左が本人、孫はその右下)


キリスト教の熱心な信者だった彼女は、いずれチェコの領主になる孫を立派なキリスト教徒に
するため一生懸命教育します。


ただ、彼の母親からすれば、いくら義理の母とはいえ、自分の息子に必要以上に干渉してくる
のは面白くありません。
孫(息子)をめぐる嫁姑バトルの開始です。


また、当時はキリスト教自体に反対する人も結構多かったようで、そういった人達は
母親側に味方するようになり、対立はさらに深まっていきました。



そうした宗教、政治、家庭、色んな事情が絡むなかで、ルドミラは暗殺されてしまいます。
首に巻いていた布で絞殺されたらしく、ガラス絵にも石像にも彼女の首には布があります。




その後、孫のヴァーツラフ1世はチェコキリスト教化に大きな力を尽くしました。
彼も暗殺されるんですが、聖人として今でも崇拝の対象になっています。


ルドミラの教育もムダじゃなかったようです。



今日はここまで。

プラハ −聖ヴィート大聖堂−(5月9日)


プラハ城に入って、まずは聖ヴィート大聖堂に行きました。
10世紀に建てられた後、度々改築・改修され、今の形になったのは20世紀前半とのこと。


正面にそびえる塔の高さと装飾に圧倒されます。

(高さは約80m)


荘厳な聖堂内は奥行きもあって天井も高い。

(奥が祭壇)




壁はたくさんのステンドグラスで飾られていました。
鮮やかな色の窓に光が差し込んで、とてもきれいです。






そんな中に、ひとつだけ他とは明らかに作風が違うものがありました。


ステンドグラスといえば、上の写真みたいに若干古くさい感じ(失礼!)のを
勝手にイメージしてたんで、これを見た時はなかなかの衝撃でした。



(見入ってしまって、しばらく動けませんでした)




19世紀後半〜20世紀前半にかけて活躍したチェコ出身の画家ミュシャ(現地語ではムハ)が
デザインしたものです。
パリでポスター作家として成功した彼が、帰国してから手がけた作品。


9世紀頃この地方に初めてキリスト教を伝えた聖メトディオスと聖キュリロスの兄弟を描いています。


上の絵の一番上、右にいるのが兄の聖メトディオス、左の黒い服が弟の聖キュリロス(のはず)。


お兄さんから洗礼を受けている男が、当時この地域を支配していたプシェミスル家の長ポジヴォイで、その左下が妻のルドミラ、そして彼女の横にいるのが孫のヴァーツラフ1世。


チェコキリスト教化はヴァーツラフ1世によって一層進められることになります。
彼は権力争いのなかで弟に暗殺されますが、死後間もない時期から現在まで、
チェコ守護聖人・民族の英雄として崇拝されています。




閑話休題
兄弟の上ではキリストと三天使(?)が見守っています。


他にも彼ら兄弟の布教活動の様子を描いた場面がありました。


ミュシャの作品はたまに日本でも展覧会やってますが、これを外して持って来るのは
さすがに無理。
まさに「ミュシャ先生のガラス絵が見れるのは、聖ヴィート大聖堂だけ!」




聖堂の奥に進むと、祭壇の脇に絵がありました。
14世紀に実在したヤン・ネポムツキーという人が題材です。


彼は宮廷に出入りする司祭で、王妃の聴罪師(懺悔を聞く人)でもありました。
そんな彼が、ある時王妃から“あること”を告白されます。


その後、彼は国王に呼び出されます。
王は自分の妻が彼に話した内容を教えるよう迫りますが、彼は断固拒否します。


国王の怒りを買い捕まった彼は、ヴルタヴァ川へ投げ込まれ殉教してしまいます。


絵の横には、死後聖人となった彼のために作られた巨大なお墓がありました。

(全て純銀で、重さ約2トン)




聖堂を出る前に、もう1回見ておくことにしました。

(何度見ても良い)



外に出ると、クレーン車が大変なことになってました。
出ようとしてるのか、入ろうとしてるのか、それすら分かりません。

(完全に立ち往生)


クレーン車の結末が気になりながらも、次の場所に移動です。


今日はここまで。

プラハ −プラハ城・北門−(5月9日)


チェコの首都・プラハは古くから中央ヨーロッパの政治・経済・文化の主要な都市と
して発展してきました。


これまでの戦争でも大きな被害を受けることがあまりなかったので、昔ながらの
美しい街並みが残っています。




市内の中心部は、大まかに次の4つの地区に分かれています。
全部まとめて世界遺産に登録されています。


フラチャニ    … プラハ城を中心にした地区。丘の上にあります。
マラー・ストラナ … 丘の斜面から麓にかけての地区。
旧市街      … 古くからの繁華街。
新市街      … 旧市街を囲むように広がる地域。

(ヴルタヴァ川を挟んで東西に広がってます)




プラハは朝から良い天気。
まずはホテルから近いプラハ城に行きます。



(快晴!)



路面電車パンタグラフがデカい)




城には北門から入ります。
プラハ城は観光地ですが、敷地内には大統領公邸もあります。
それもあってか、門の脇には衛兵がいました。

(黒塗りの車がチラホラ走ってました)



衛兵の写真撮影は基本的に自由。
ただし、調子に乗って周りの鉄柵より内側に入ったりすると、大変なことになるそうです。

(微動だにしません)




しばらくすると、城内から別の衛兵がやってきました。
時間はちょうど朝の9時。
これから交替式が始まるところでした。

(1時間交替。正午にはこれに楽隊が付くそう)


ここから動画ですが、途中25秒あたりから左に首を傾けてください。
僕の単純ミス。お恥ずかしい(汗
D




(退場)



交替式を見て、入城です。


今日はここまで。